2012年2月21日火曜日

時間は永遠なのに、そして人間の手も永遠なのに。

今日!なのですが、
ぜひお会いしてみたい、
いってみたいお話会があります。

「サティシュ・クマール with  辻信一 今、ここにある未来」
上映会+講演会 in 京都
――3・11後の大転換を考える――

18時から21時。
場所は京都駅アバンティー9階。

ここからは、サティシュ・クマールさんの
HPより転載です。
(勝手に転載します。すみません。
でも、多くの人に知ってほしいので。)

自然は無限であると思い、人の手には限界があると思って、労働の節約を目指した。そして、機械が登場し、廃棄物が生じるようになった。手作りは廃れ、破滅に向かっている。手業が衰退している。

時間は永遠なのに、そして人間の手も永遠なのに、その永遠なるものを節約しようとしている。

石油は再生不可能、そのなくなるもの大量に消費している。

手仕事は、単にものを作るだけではなく、精神的な行為である。創造性のたまものである。参加する行為である。

一方、大量生産には、芸術も工芸的要素もない。美しさもなく、地球を破壊している。

化石燃料、ピークオイルに直面している。
危機ではあるが、危機の機は機会の機、つまり危機はチャンスでもある。私たちが目覚めるチャンスと言えよう。

大きくて速いのが良いという価値観が大勢である。手作りは遅れたこと、大変なこと、貧乏になることというイメージがある。エコで持続可能というのは困難なこと、という恐怖もある。だから、技術革新によって危機を乗り越えるしかないと、思いこませようとしている。
これに対して、私は今よりももっと良い生き方があるという提案をしたい。簡素であるけれども、エレガント、芸術、工芸、幸福がそこにはある。

産業界は、お金をもうけるという動機で動いている。
手仕事は、精神的営みであり、愛を込めた仕事となる。
だから私は、雇用よりも生業を求める生き方が大切だと思う。雇用だと、雇い主に命じられて働くが、生業であれば、自分の好きなように時間が使え、自分が主人公となれる。

プロセスが大切である。良い結果をもたらすことが目的ではない。正しい生き方だから、このように生きるのだと捉えることが大切だ。

SOULを耕すこと、友情、親切、美、寛容。名声を得たいというエゴを抑え、美や寛容に至るソウルを高めていくことだ。
もちろん、エゴが全く要らないというわけではない。しかし、必要なのは短期間だけだ。それは、種の殻と同様である。種に殻がないと種として存在できないが、いつまでも殻がついたままだと芽を出すことができない。種は土に蒔かれたら、殻を捨て土と一体となって行かねばならない。
人間も同様である。人間は他との関係の中で生きる存在であるが、エゴは我々を他から切り離す。であるから、ある時期が来たらエゴから離れることが必要だ。エゴから離れることが、自由を得ることであり、悟りである。

思いやりの心
温泉の施設は残念だった。水飲み場もなかった。日本の伝統的建造物の歴史に学び、伝統的建て方が存続することを希望する。温泉施設を設計した人には、何のためにこのような施設を建てたのかを聞きたい。利益を得るためだろうか。しかし、人々や大地に奉仕するということが、利益の追求よりも先に来なければならない。
もし、無知からこのような施設を建てたのであれば、教えてあげればよい。また、利益の追求であるならば、それに対して挑戦していくことが必要だ。そして、商業主義的ではない、本物の建物を私たちの方で建てればよい。

怒りはいらない。
必要なのはコミュニケーションである。非暴力的なコミュニケーションの手法を向上させることだ。心にふれる、届く言葉掛けである。どのようなかたくなな心にも、どこかに柔らかい場所がある。その柔らかなスポットを探すことだ。建物にはいるのに、固い壁をうち破ってはいることはできなくても、ドアや窓からなら入れる。同様にその人にとっての、ドアや窓を探すのである。
さらには、結果にとらわれないことだ。成功することにとらわれてはいけない。働きかけることができた。それだけで十分である。
悪いものを壊すよりも、本物である、別のものを作って提供することだ。

太陽や雨は、我々に多くの恵みをもたらすが、我々は太陽や雨に対して、何もお返しをしていない。何の見返りも期待せずに、太陽は日々我々を照らしてくれている。
だから、我々もエゴを手放して、謙遜を学ぶことだ。・・・お陰様・・

「我思う故に我あり」には、関係性というものが存在しない。
仏陀は、屋外で、木の根本で、この世の現実、つまり、依存しあっている、So Hun、「君あり故に我あり」という悟りに達した。

忍耐
まず、聞くことである。そして友情を培ってから、語るのがよい。

断食
自己犠牲の行為。かたくなな人にその姿を見せることで、相手が恥じ入り、哀れみの気持ちが生じてくる。
正しいことだからやっている。成功するためにやっているのではない。
相手を変えるのではなく、コミュニケーションを図る。

ガンジーは、簡素な生活:糸車と農業という生活を集団で行ってきた。長期間の訓練を経ての非暴力の実践。
非暴力は、生き方である。良い暮らしという暮らしを実践すること。テクニックではなく、生き方である。結果ではなく、日々のプロセスである。

雇用よりも生業について
自分が人生の主人公となること。そのように挑戦してみること。自分自身を信じること。そのような生き方はリスクを伴うが、ドアを探すこと。完全を目指さないで、方向性を考えるのがよい。私が仕事のために存在するのではなく、仕事が私のためにあるとなったときに、よろこびを味わえる。

間に合わないのではないか?
時間がなくなりつつあるのは、工業文明の方である。工業文明は生き延びることができない。工業文明の崩壊をおそれる必要はない。ライフボート(救命ボート)を作って、用意しておけばよい。
危機に対してパニックに陥るとすれば、それは恐れに突き動かされているからだ。これでは、みんなバラバラだし、弱い。むしろ、地球・自然・人々を愛する気持ちを動機にすると良い。
シャロームのような場で、1万人の人々に訓練を施すことができれば、大きな力となるだろう。
我々の時が近づいている。準備をしよう。

対立するのではなく、包み込むプロセスだ。

自然から学ぶこと。自然に敬意を払い、好奇心を持つ。自然の神秘にふれると人は謙遜になる。ところが、自然について学ぶ姿勢だと、自然を人間のために利用する方向に進む。スモールスクールは、11歳~16歳。自然の中に出かけている。菜園、パンを焼き、料理をする。子どもは、その中に知識をどんどん詰め込むための空っぽのかごではない。徐々に開かれていく種子である。もの作りを通して、生きていく準備をするのが学校である。就職の準備をするのが学校ではない。
百姓とは、百の仕事をする人。すばらしいと思う。
人の身の丈にあった教育が大切である。

今ここを生きる
結果にとらわれるとすれば、それは今ここを生きていないからだ。今ここが空白になっているからだ。だから、常に、自分は今ここを生きているだろうかということに意識を向けることが必要になってくる。
今、種を蒔いている。ならば、あとは大地を信頼するしかない。信頼がポイントだ。
正しいことをやったのであるならば、結果がどうなろうとも良いではないか。
怒りは、恐怖から生まれる。そして恐怖は支配欲の結果である。支配したいと思うから、支配できないのではないか、思い通りに行かないのではないかという恐れが生まれ、思い通りに行かないことに対する怒りが生じるのである。だから、支配したいという欲望をあきらめることが必要だ。支配するのではなく、プロセスに参加するという姿勢を持つことだ。
怒りがあるなら、自分が今怒りを抱いていることにまず気づくことだ。そして、気づいたなら、その場から抜け出すことだ。散歩に出かけても良い。
怒りは、相手ではなく、自分自身を傷つける。だから怒りをもっと肯定的な情熱、親切心に換えていくことが必要だ。

スモールスクールでは、家の設計、修理を教えている。設計や建てることに参加することを重視している。家が均一化していることは問題である。また、利用しきれていないことも残念である。例えば、日本家屋では、朝起きて布団をたためば、そこが居間になる。一部屋がいろいろな使われ方をしてきた。ところが、今はベッドルームは夜寝るときだけ使って、居間は昼間だけ、しかも家人が留守の間は使われない。せっかく建てた家、多くの建材が使われているのに、こういう使い方は非常にもったいない。

フードマイレージということが言われるが、建材についてもマイレージを考える必要がある。地元で手に入るもので、家を建てるのがよい。

私は今の家に30年住んでいる。今後引っ越したいとは思わない。そこで菜園をしているし、友人もいる。そこに根を下ろしており、そこに所属感がある。旅行するのはかまわないが、戻ってくる。定住すると決めた場所に長く住むことが大切だ。

ソフトランディングが可能か。
ドライバーに知恵がある場合には、可能だが、現状は、目をつむって、コースを変えない状況だ。アドバイスを聞こうとしない。墜落・破滅を避けることはできないだろう。だから、別の生き方を構築していくことがよい。そのためには、栽培や建造さらにそれをいかに補修していくかの技術を身につけていくことだ。技術があれば、破滅が訪れたときでも生き延びることができる。
同時に、リーダーたちに我々の言葉に耳を傾けてくれと、圧力をかけていくことも必要だ。そうしながら、別の生き方を構築していくのである。

内なる平安と外部の平和はつながっている。すべてはつながっている。
心の中が平和でないと、心の中のものが、言葉や態度になって外側に出てくる。
心の中が平和でないと言うのは、支配したいという気持ちを持っているからだ。

一人一人が小宇宙である。
全世界が、一つの砂粒の中に存在している。
無限は手のひらの上にあり、永遠は1時間の中にある。
自分が、神・宇宙・聖なることを認める=平安である、平和を自分の中に作る。
地球は、大気、土、火、水、想像力、創造性でできている。すべて一人の中にある。
このような自分の存在を過小評価するのが劣等感であり、その反対がエゴ。
これらは、自分自身に対して戦争を仕掛けるようなもの。
エゴや劣等感を乗り越えるときに、つまり、私はすべてだと気づくときに、私は本来の私になることができる。
心に葛藤があるときは、シャンティーを3回唱えると良い。自分との平和。宇宙との平和。社会との平和である。

ヒンズー教徒として、でかければイスラム教徒に出会っただろう。人間としてでかければ人間に出会う。


真実よりも非暴力の方が重要である。真実はたくさんある。どれも正しい。そういう立場で非暴力のやり方で主張することだ。なぜなら、暴力的な言葉は暴力的な行動につながる。非暴力は生き方である。ガンジーもアシュラムで、非暴力の生き方を人々とともに実践していた。だから、あのような働きができた。

世界中の国で憲法9条を取り入れると良い。各国でそのような働きかけをしていくことで、日本に対しても、憲法9条を守るべきだという圧力を与えることができる。

恐怖から自由になること。

種はギフト:インドの言葉では、種という言葉と贈り物という言葉は同じ言葉である。

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こちらのHPより、転載しました。

ありがとうございます。





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